仏教の真髄「空」に挑戦 |
私は、幸福の科学の会員です。まだまだ至らぬものです。仏教には、もっともっと深いものが、その書物の中に隠れています。仏教を学ぶ人は、一度は「空」なる思想に挑戦された事はあるでしょう。私もチョコットしたことから、「空」について、少し、勉強してみました。こんな文章で、少しは、「空」が、その雰囲気が、おわかりになればありがたいのですが、よろしく御願いします。 「無我なる愛」幸福の科学出版 大川隆法著 より、今回で3回目ですが、仏教の真髄である、「空」の思想を勉強してみたくて、頑張ってみました。今までの心の探求の中で、最も難しい、「空」の思想が入っている、「詩」 です。よりいっそうレベルの高そうな、「逃避と救済」に、挑戦してみます。出来るかどうか、やってみなければ、わかりません。 「空」とは、「無い」ということではなく、「アル」のです。の意味が、お分かりになればありがたいのですが。 「逃避と救済」 「空」とは、断じてこの世からの逃避ではない。 一切が夢幻の如くであるからといって、 人間も、動植物も、 地球も 星も、太陽も、 すべてが虚しく、意味がない、というわけではない。 一切の存在を「空」と感ずることにより、 ひとは執着を離れ、苦悩を滅尽する。 また、 一切の存在に「慈悲」を感得するとき、 光あらわれ、勇気と化するのだ。 そして「空」は、逃避から救済へと向かうのである。 さらっと読み通してみれば、なんとなく意味が伝わりますが、一つ一つの細かい意味は、全く分からないのが、正直なところです。「悟りの挑戦」幸福の科学出版 大川隆法著 下巻 第4章P123より を参考に、勉強しました。この話も、あの世があってこそ、真なる「空」の世界が見えてくるのです。あの世が信じられない人は、全く理解が出来ないのではないでしょうか。そんなことは、抜きにして、いちど読んで見て下さい。 <「空」とは、断じてこの世からの逃避ではない。> ;時間と存在の奥には、それぞれ、仏教で言う「空」の思想、「無」の思想があります。「空」は時間を、「無」は存在をそれぞれ暗示しています。時間には「変転していく」という意味があり、宇宙の運動法則を表しています。このことから、「空」についての説明をします。 時間というものの中には、「変転していく」という意味があり、そこには空間が存在します。「空」が有るのです。「空」というのは「アル」のです。その「アル」と思うものは、三次元的な見方で見るような、固定的なものとしてあるのではないのです。固定的なものではなく、「変化していくもの」であるというのが真相です。 この「変化していくもの」という考え方は、三次元的に、この世的に変化してゆくことのみではなく、この世とあの世を含めた意味での流転、変化があるということをいっているのです。 よって、「空」は、この世からの逃避では有りません。 <一切が夢幻の如くであるからといって、人間も、動植物も、地球も 星も、太陽も、すべてが虚しく、意味がない、というわけではない。> ;一切が、夢幻の如くであるからといって、人間も、動植物も、地球も 星も、太陽も、すべてが虚しく、意味がない、というわけではないのです。これはこの文章を素直に読んでそのとおりです。 全てのこの世の出来事や、現象は、一瞬たりとも、とどまる事はありません。全て、刻々と変化するものばかりです。 例えば人間は、日々変化しています。昨日の自分は、もう今は居ないのです。変化しています。ある意味では虚しい自分、と思うかもしれませんが、決して意味のない自分ではありません。 今一生懸命生きている自分なのです。 <一切の存在を「空」と感ずることにより、ひとは執着を離れ、苦悩を滅尽する。> ;一切は「空」であると考えて見ますと、己(おのれ)を空(むな)しくしていった後に、もし、全くの「無」が現れてきたならば、その底には何かがあるのです。しかし、万象万物は存在しています。万象万物の存在の無いところには、己は存在しません。そして、時間が刻々と「変転していく」のです。この空間の中には、「存在」があります。エネルギーがあります、生命力がわいてくるのです。一切が「空」と考えていたものは、「無」ではないのです。神のエネルギーとしての自分が「アル」のです。 森羅万象全ての、一切の存在を「空」と感じたものは、神のエネルギーとしての万象万物というように見ていったときに、「空」というものは、この世的なる見方・考え方によると、そのものの存在が否定されますが、この世的なる「存在」の否定をした奥に「肯定」が現れてきます。すなわち、力強い生命のエネルギー、生命そのものが現れてくるのです。 「空」になったら、何もないのかといったら、そこに素晴らしい実相が現れてくるのです。そこに素晴らしい世界が展開してくるのです。個人として、「空」になったら、すなわち、個人として、一切の存在を「空」と感ずることにより、ひとは執着を離れ、苦悩を滅尽するのです。 心の貪(とん)瞋(じん)癡(ち)の三毒に執らわれた生き方から離れ、この世的なる苦しみから離れることが出来るのです。 <また、一切の存在に「慈悲」を感得するとき、光あらわれ、勇気と化するのだ。そして「空」は、逃避から救済へと向かうのである。> ;個人として、一切の存在を「空」と感ずることにより、執着を去ったときに、神仏の慈悲なる存在が、万象万物の姿を借りて現れてくるのです。全てのものが、神仏の慈悲によって現れている存在であるならば、ここに「私たちは、自分だけが存在すればよいという小さな枠を取り去って、共に愛し会わなければならない」という見方が現れます。 神仏の大いなる御光に、勇気と希望が現れ「共に努力して、ユートピア、仏国土の建設をしなければならない」という救済の考え方へと向かうのです。 先の言葉を、もう一度言います。「空」になったら、何もないのかといったら、そこに素晴らしい実相が現れてくるのです。そこに素晴らしい世界が展開してくるのです。そこには、生きとしいけるもの、全てのものに、大いなる神の光が、降り注ぎ、全人類の救済に向かっている、神仏の姿が、おおいなる、御光があるのです。それは生きとしいけるもの、全てに、勇気を与え、希望に満ちています。 |
by makkii-hiro
| 2010-02-23 13:30
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